民俗的供養から仏教的供養に

「 供養と経済の深層」というテーマでの論考を書きます。

宗教と経済の分かりやすい関係については、いろんな雑誌や新書本で読めます。
「宗教経済学」だと島田裕巳さんとか、「宗教の経済学」だと中島隆信さんとか…。

しかし、宗教と経済の深層の次元に、その両方を決めている無意識的で本質的な法則があると思います。

「経済」という概念を、「市場経済」的な数値化される即物的な領域に限らずに、精神的・無意識的な「交換」や、神仏との「交換」まで拡大して考えないと、人間の活動は理解できません。
こういった観点から考察すると、経済も宗教も同時の対象になり、分けて考えることができません。

教科書にはなっていない世界ですが、「経済人類学」などを拡張した未踏の領域を切り開いて、供養と経済の背後に思いをめぐらしてみます。

訳あって、島田裕巳氏の『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』と、中島隆信さんの『お寺の経済学』『これも経済学だ!』の批判も付けます。

最後には、「救い」と経済の関係を書きました。


 == 民俗的供養から仏教的供養に ==

葬送や初期の供養の第一の目的は、死者を現世に何らかの念を残している「浮ばれない魂」ではなく、あの世に安住する「やすらかな魂」にすることです。
これを実現する論理は、中世に「民俗的先祖信仰」の論理から「仏教の供養」の論理に代わりました。
このことをまず、確認してみましょう。

民俗的な先祖信仰の供養は「祀り」、「祓い」によって行います。
「祀り」の内実は、「祈願する」、「供える」、「反省する」、「賞賛する」などです。

つまり、「人格的対話」によって魂をなだめます。
主導権を持っているのは死者の側であり、供養者は罪悪感を感じていることもしばしばです。


一方、仏教の供養は「追善供養」、「引導」によって行います。
「追善供養」は「善行」による「功徳」を「回向」することによって行われます。
「引導」は説法です。

つまり、「普遍的な因果の法則」と「仏教思想の論理」によって魂を援助します。
民俗的な供養のように私的で人格的な関係は不要です。
主導権を持っているのは供養者であり、浮ばれないのはこだわりを持つ本人が悪いのです。

二つの論理を比較すれば、仏教の供養の論理の方がありがたがられたのは当然でしょう。
特に、武士にとっては仏教の供養でないと安心して眠れなかったでしょう。

実は、仏教の回向の論理が広まったことと、市場経済が浸透したことは関係していると思います。
(2010)

(続く)

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