救いと経済

「救いと経済」というジャンルでの、一連の論考の最後の文章です。
古い投稿から順にお読みください。


『お寺の経済学』は、仏教の心の救いの部分に関しての経済的な分析にはほとんど立ち入っていません。
文庫版の補論で山形浩生氏がこのことを指摘し、論考しようとしていますが、「非金銭的経済」と言うだけです。

経済人類学が言う3つの交換形態は、同時に社会の組織形態でもあります。
「互酬」は「コミュニティ」に固有であり、「再配分」は「国家」に固有、「市場交換」は「都市」に固有なものです。
「互酬」はコミュニティの掟が作り、「再配分」は強制的な権力を前提にし、「市場交換」は競争と不平等を作ります。
つまり、それぞれには特定の不自由さがあります。

仏教などの世界宗教が目指す「救い」は、漠然としたものではありません。
3つの交換形態の不自由さを否定し、それらに抗する第4のあり方を目指すものです。
これは柄谷行人氏の説ですが、私も基本的に正しいと思います。

仏教が生み出した布施による功徳の生産という論理も、第4を目指すあり方の一つでしょう。
19世紀以来のアソシエーショニズムも同様の目標を持っています。

==

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたウェーバーは、資本主義にはプロテスタンティズムが持っていた倫理が必要であると考えていたと言われています。
しかし、最近の研究ではこの通説とはまったく逆で、ウェーバーはニーチェ的立場からキリスト教の倫理や資本主義に対して批判的だったことが明らかになっています。
多分、ニーチェやウェーバーの立場はこの第4の道に近いだろうと思います。

中島隆信氏は市場原理を信仰しているようで、次のように言います。
「経済学は煩悩の世界における経済活動の正当性を保証してくれる」
「市場原理という他力、見えざる仏の御手が効率的な資源配分をもたらす」

中島隆信氏は「市場原理(均衡理論)」と「経済学」と「現実の市場」を区別せず、「他力」も同じと考えます。
リーマンショック以前の著作とはいえ、中島隆信氏は市場原理を盲目的に信仰していて、批判的視点を持たないようです。
市場原理による最適化はきわめて限定的にしか存在しないのが現実です。
それに、市場原理の最適化は経済主体が合理的に判断して行動することを前提にしていますが、本当の「他力」は、個人が主体的な判断を捨てた時に現れるものです。

==

人間の意識の及ばない自然や無意識の創造力は、神仏からの「純粋な贈与」だと言えます。

共同体は共同体内の論理である「互酬」交換に従って、儀礼的に返礼を行い、神仏との経済関係を形式化します。
しかし、「純粋な贈与」には、実際には返礼が必要ありません。

ただ自然や無意識の創造力に「感謝」し、それを「受け入れ」、意識的・形式的なものによってそれらを「抑制」せず、「変化することを否定しない」ことが、唯一の「純粋な返礼」の形です。
これは形式化される以前の経済・交換行為です。
ここに宗教や救いの本質があります。

親鸞が「自然法爾」と言った「他力」も、まだ形式となる前の「純粋な贈与」です。
寺院の役割はそれを媒介し、3つの経済・交換形態の不自由さに抗することでしょう。
(2010)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック