無記から自業自得へ

仏教にとって供養とは何かについて、その複雑な問題を明確に解きほぐしたいと思います。

日本の仏教の供養の論理を聞いても、疑問が次々浮んできて、よく理解できないのではないでしょうか?
折衷的に、後からつぎはぎでこじつけて作られたものなので、当然そうなってしまいます。

ですから、釈迦はどうだったのかという原点から歴史を追いつつ、また、チベットや東南アジアの純粋な仏教に視野を広げつつ、日本仏教までの死後観・供養観を簡単に取り上げます。
そうして初めて、日本仏教の供養の論理のあり方が理解できると思います。

日本の各宗派の供養観に関しては、文献の他に本山や宗務所などに問合せをしましたが、調べるほどに回答は異なってくるようで、それが実態であると思いました。

まずは、釈迦の思想からです。


<無記と無我…釈迦とインド新仏教>

最古とされる経典(パーリ小部「集経(スッタニパータ)」収録の「義品」、「彼岸道品」)では、釈迦は死後や輪廻にはほとんど触れていません。
多分、死後に関心がなかったのでしょう。

また、教義を持つこと、論争すること、宗教儀式、戒律などを否定しています。
この点で後の仏教とは大きく違います。
その後の原始仏典(パーリ仏典・漢訳阿含経)でも、死後の魂の存在などの形而上学的な質問に釈迦が答えない姿勢を示しているものがいくつかあり、「無記」と呼ばれます。

ちなみに現在インドでは仏教が復興され、信者1億人とも言われています。
この「インド新仏教」は近代主義的な釈迦回帰仏教で、仏教を現世における道徳と考えます。
そして、「無我」だから魂もなく、死後の輪廻も否定します。
葬儀や供養にも意味を認めないはずです。


<輪廻と自業自得…原始仏教・上座部仏教>

釈迦滅後、仏教はすぐに当時インドで一般的だった輪廻思想を受入れたようです。
人は死後、「因果応報」とか「自業自得」とか呼ばれる法則に従って、生前の行いに応じて、五趣(神々、人、動物、餓鬼、地獄の住人)のいずれかに生まれ変わります。

ちなみに、北伝の大乗仏教は阿修羅を入れて六趣(六道輪廻)と考えます。
また、南伝の上座部仏教では、死と同時に転生すると考えますが、北伝の大乗仏教では、一般に亡くなってから転生するまでに49日の「中有(中陰)」という移行期があるとします。
「中有」の時は幽霊のような存在で、向こうからは我々が見えます。

同時に、涅槃=仏とは、転生しない存在、つまり、身心の完全な死滅を意味するようになります。
絶対的な現世否定思想です。

輪廻というのは、この世の様々な存在様式を巡るということで、「あの世」というものはありません。
ただ、実は「餓鬼」というのは、元々はインドの伝統的な世界観における「先祖」を意味していました。
伝統的な「あの世の先祖の世界」が、亡者の世界と捉え直されたのです。
多分、普通に我欲を持って生きた人が死ぬと「餓鬼」になるということでしょう。

「餓鬼」は「中有」の存在と似ていて、我々の回りにもいますがこちらからは見えません。
「日本人が良く先祖が守護霊として憑いていると言うのは、実際は餓鬼がたかっているだけですよ」と、チベットの僧侶が言っていましたが、これも同じ考えによります。

仏教や輪廻の世界観では、人はすぐに転生するので、お墓や位牌には本来、意味がありません。
転生先の運命が「自業自得」なら、供養の意味もありません。
初期の仏教を継承している東南アジアの上座部仏教では、僧侶レベルでは自業自得を重視するので、供養を重視しません。
上座部は転生を認めますが、「無我」なので人格の継続性は認めず、事実上、輪廻を否定しているに等しくなります。

ちなみにお釈迦様を生んだ釈迦族は現在もネパールに住んでいて、多くは上座部を信仰しています。
(2010)

(続く)

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