映画『おくりびと』の死生観

映画『おくりびと』は、死や葬儀、供養の意味を改めて考えさせてくれます。
この映画が内外で人気を博しているのは、特定の宗教や個人の信条を越えたところで、「死」の意味を描いているからではないでしょうか。
映画『おくりびと』は「死」や「死後」について直接、述べることは少ないのですが、多くを暗に表現しており、そこには伝統的な文化が持っていた死生観が反映しています。
映画『おくりびと』の死生観を分析してみましょう。


<季節循環と重ねて表現される「死」>

偶然、納棺師になった主人公が、妻や友人から反対されながらも、様々な人を送っているうちに納棺師の仕事の素晴らしさを感じていき、最後には、生き別れ、嫌っていた父親を自分の手で送ることで、親子のつながりを取り戻す…、『おくりびと』はそんなストーリーの映画です。

このストーリーの中で描かれているのは、主人公が納棺師の仕事を通して「死」と対面することによって、人格的に成長していく姿です。
「普遍性」としての死、「再生」の基盤としての死が、個々人の意見の対立を越えた理解をうながすことで、送る側にとっても、葬儀が人格の成長のための通過儀礼となることが示されます。

主人公は東京でオーケストラのチェロ奏者として仕事を始めますが、運悪く、すぐにオーケストラが解散となって仕事を失い、田舎の秋田に帰ることになります。

東京での主人公夫婦の生活のあり方を表す象徴的な出来事があります。
妻が食材としてタコを買ってくるのですが、タコがまだ生きているのに驚き、殺すことができず、二人で海に戻そうとします。
しかし、タコはそのままプカプカ浮んで死んでしまいます。つまり、彼らは「生」や「死」をまともに扱うことができない存在として表現されています。

季節はちょうど冬、主人公は秋田の故郷に帰り、偶然、納棺師の仕事を始めることで、「死」と向き合い始めます。

東京から秋田への「帰郷」、そして季節としての「冬」は、主人公の「死への回帰」と重なります。
また、秋田の自然の風景として描かれる「シャケの遡上」や越冬のための「渡り鳥の飛来」も、主人公の「帰郷」や「死への回帰」と重なります。
このように死を季節循環の中で捉えることは、世界中の伝統的な文化に共通します。

映画『おくりびと』の中の登場人物は、死は終わりではなく「門」であると語ります。
しかし、映画『おくりびと』は死を季節と重ねて表現することで、死を単に生との「連続性」としてではなく、「循環」や「再生」として暗に表現しています。


<対話をうながす「普遍性」としての「死」>

主人公が納棺の仕事を通して葬儀の場で見たのは、女性として生きようとした性同一性障害の男性や、バイク事故で死んだ不良少女、などなど、故人の様々な人生です。そして、故人と家族の間の価値観の対立であり、家族同士の対立です。
しかし、同時に、故人の死に際して、家族が対立していた故人の人生を受け入れようと一歩を踏み出す姿でした。

映画が直接描いているは、こういった生の多様な「個別性」と「対立」の世界です。
しかし、それによって死が、それらを越えた「普遍性」として、それゆえに「対話」を促すものとして立ち現われてきます。
主人公は、「普遍性」としての死と向き合うことで、個人としての限界を持った人格を、広げ、成長させていくことができます。


<「食」を介した生命循環>

しかし、納棺師の仕事を妻や友人からは強く反対され、主人公は仕事をやめようと納棺師の会社の社長に言いに行きます。

社長の部屋は意外にも、まるで植物園のように多くの植物に溢れ、「生」に溢れていました。
社長はフグのシラコ焼きを主人公に勧めながら、食べることも遺体を処理することだと語ります。
「食」を通して「生」を享受することと、「葬る」ことが同時であるということです。主人公は社長のこの話から「生」と「死」に関する理解を深め、納棺師の仕事をやめたいと言うことを躊躇します。

現代人には理解できなくなってしまっていますが、伝統文化、特に狩猟文化では、「食」を通した生命循環は世界観の基本です。
人間は動物を「食べる」ことで「生」をもらい、動物は人間の胃を墓として「再生」すると考えられました。
例えば、こういった世界観は、各地の猟師が動物を解体する時に唱えた「諏訪の勘文」などに残っています。

つまり、「食べる」ことは同時に「葬る」ことであり、「再生」させることであり、「生の交換」を行う神聖な儀式だったのです。


<銭湯が示す「再生」としての「死」>

主人公の友人の母が経営している「鶴の湯」という銭湯をめぐる出来事には、「死」を「再生」と考える死生観が表現されています。

この友人は、主人公が納棺師の仕事をすることに反対し、「死」に理解のない人間として登場します。
彼は母に銭湯をやめてマンションを建てて儲けることを進言します
。しかし、母は銭湯を必要として来てくれる常連さんのために、銭湯を続けていました。

この銭湯のおばさんが急死し、主人公が納棺を行います。
また、銭湯の常連だったおじさんが、実は火葬を行う職員であったことが分かります。
おばさんは死ぬ前に、おじさんに銭湯を一緒にやらないかと誘っていたことを、おじさんが明かします。
おじさんは、銭湯も火葬も同じ火をつける仕事だと語ります。

銭湯の「鶴の湯」は、名前からも渡り鳥の越冬地・中継地としての山形と重ねられています
。さらには、おばさんとおじさんの関係から、この銭湯は「再生」の基盤としての「死」とも重ねられています。

死と再生は一体であり、火葬によって死者を送り出すおじさんと、銭湯で人々の保養につくすおばさんは一体です。
いや、火葬も火によって現世のケガレを取り除き、再生させて死後へと送り出します。
銭湯が火で沸かした湯によって人の疲れを除き、元気に生き返らせるように。

つまり、人が銭湯で元気を取り戻すこと、人が死んであの世に旅立つこと、魂の象徴である鳥が越冬の中継地としての山形で骨休みして飛び立つこと、これらが象徴的に重ねられ、その中で「死」が「再生」として表現されています。


<失っていた半身の統合>

主人公の成長と共に、季節は春に移り、死と向き合う通過儀礼は終局に向かいます。

主人公の父は主人公が子供の時に女を作って出て行き、音信不通となっています。
主人公は父の顔も覚えていません。

どのような人間であれ、何かを否定し、自分の可能性の一部を失うことで、自分の個性、アイデンティテイを築きます。
主人公が父とその顔の記憶を失っていることは、自分自身の可能性の一部を否定し、失い、それによって真実の自分の目標を失っていることを表しています。
主人公が死と向き合う通過儀礼を終わらせるためには、否定し、失っている自分の半身としての父とのつながりを取り戻し、受容することが必要です。

主人公は嫌っていた父の死の知らせを受けます。最初は父の葬儀に立ち会わないと考えますが、妻らの説得を受けて父の元に向かいます。
主人公は父の遺体を軽く扱おうとする葬儀屋の手を振り払い、自ら納棺を行います。

主人公は遺体の父の顔を見ますが、父の記憶は戻りません。
しかし、納棺の作業の際に、父が、かつて主人公が子供の頃に交換した「石文(言葉の代わりに自分の気持ちを伝えるために送る石)」を握り締めて死んでいることを発見します。これをきっかけに、主人公は、父から石文をもらった時の記憶の中で、欠けていた父の顔を思い出します。この場面がこの映画のクライマックスです。

石文に象徴されているのは、対立を越える「対話」です。
これによって否定し、主人公の失っていた自分自身の可能性が取り戻され、人格の統合が果たされます。こうして主人公の 通過儀礼は完了します。
主人公は最後に、かつて父に渡したこの石を、妻のお腹の中にいる子供に差し出します。
人格の統合の結果としての創造性が子供の誕生に象徴され、対話が人の生命のつながりとして示されます。


<伝統文化における供養の意味>

映画『おくりびと』は葬儀が人格の成長と人間のつながりを促すきっかけ、通過儀礼となることを表現しています。
映画『おくりびと』が暗示するこの死生観は、伝統文化のそれを反映しています。

伝統的な文化では、人は人生の中で繰り返し通過儀礼を行って成長していきます。
現在の日本では、七五三、成人式、結婚式、還暦といった形で残っている冠婚儀礼などがこれに当たります。
また、死や死後にも通過儀礼を行います。現在の日本では、葬儀や忌日法要、年忌法要といった供養、つまり葬祭儀礼がこれに当たります。
伝統的な先祖信仰では、死者は供養=通過儀礼を繰り返すことで、徐々に個性を落として普遍的で集合的な魂である先祖霊になっていくと考えます。実はこれと同様に、生きている時の通過儀礼も、人格を普遍的なものに成長させていくものでした。
人は通過儀礼の度に、潜在意識の創造性に回帰し、擬死再生を経ることで、人格を成長させていたのです。

つまり、「生」、「死」、「死後」は人格を成長させ、普遍化していく一連の連続的なプロセスであると考えられていたのです。
そして、葬儀や供養は、一種の「帰郷」=「死への回帰」であり、供養する者とされる者の成長・普遍化を同時に促す機会なのです。

故人は自分の心の一部であり、心の可能性ですから、供養は、自分が、故人が、否定して失ってしまっている可能性と対面することでそれを取り戻し、人格を統合する過程となります。
これが伝統的な文化における死生観の本質であり、供養の本質であり、グリーフワークの本質であり、現在において失われているものではないでしょうか。
(2009)

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