回向と追善供養

(続き)
「供養」という言葉は仏教用語だと思います。
バラモン・ヒンドズー教の「プージャ」を仏教が取り入れて、それを漢訳したものです。
「プージャ」の意味は、神や先祖をもてなし、代わりに何かをご利益をいただくことです。
世界中の伝統的な祭り、宗教儀式の基本はこれと同じだと思います。

仏教では、仏などにお供えをすることに加えて、良いことをして仏を喜ばせることや、僧侶に布施することなどが「供養」とされました。

しかし、仏教は初期の段階で、バラモン教が行っていた先祖供養を取り入れます。
パーリ「増支部」には、先祖が「餓鬼」になっている場合のみ、先祖供養は有効であると書かれています。
「先祖供養=施餓鬼供養」という認識です。
日本のお寺でも「施餓鬼会」というのを行いますが、実はこれが本来の先祖供養です。
餓鬼以外に転生している場合は、なぜ、供養に意味がないのでしょうか?

仏教の論理では、先祖供養は「追善供養」、つまり、善い行いの功徳を先祖に「回向」する(振り向ける)ことです。
しかし、「回向」は「自業自得」の論理に矛盾します。
一般レベルでは、「自業自得」に特例として「回向」が加わると考えるのでしょう。
しかし、初期仏教を継承している上座部仏教の僧侶レベルでは、下記のような解釈で「自業自得」と「追善供養」を両立させます。

原則は「自業自得」なので「回向」は成り立ちません。
しかし、「餓鬼」は我々と同じ場所にいるので、自分たちが供養されるのを見ることができます。
ると、その行為に対して感動して心が浄化されます。
仏教では、清い心そのものが善であり、他人の善い行いに共感して喜ぶこと(随喜)も功徳となります。
こうして、「回向」の論理なしに先祖に功徳が振り向けられ、供養が可能となります。

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しかし、ちょっと考えれば、輪廻の世界観では先祖供養が成り立たないことが分かります。
すべての生き物は過去に限りなく何度も輪廻しています。
ですから、すべての生き物は(例えば今日食べた動物や魚も)、かつて自分の親だったり自分の子だったりしたことがあるはずです。
自分自身が自分の先祖だったこともあるでしょうし、先祖の先祖だったこともあるでしょう。
つまり、誰かが先祖か先祖でないかという区別には意味がありません。

輪廻の世界観では、家系的な時間軸は解体され、無時間的にすべての生命を平等視します。
ですから、先祖という概念は事実上成り立ちません。
先祖供養はすべての生き物への博愛・利他となります。

ですから、仏教では回向(供養)はすべての生き物に対してすべきものです。
上座部仏教でもチベット仏教でもそれが原則です。
日本仏教にもそういう考え(総回向)があります。

(続く)

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