送迎儀礼と供養

「通過儀礼と供養」のカテゴリでは基層文化のコスモロジーの「時間」と供養との関係を扱いました。
これに対して、この文章は、「空間」を扱います。

現代人でも、無意識の中では、聖なる空間と俗なる空間を分けています。
葬祭・供養は、常にそのコスモロジーの中で、特定の場所に基づく意味があります。
現代人は意識していなくても、それを感じています。

「葬(葬儀)」は他界に故人の魂を送る儀礼です。
「祭(供養)」は他界から故人の魂を呼ぶ儀礼です。

では、お墓の意味はどちらでしょう?

かつては「両墓性」といって墓が2つある地方が多くありました。
遺体を埋める「埋(め)墓」と、石塔を建てて故人を祀った「詣(で)墓」です。
「埋墓」は住居から遠くにあって「葬送儀礼」に関わるものです。
「詣墓」は住居の近くにあって「招魂儀礼」に関わるものです。

それが火葬の普及と共に、一つ(単墓性)になりました。
本来、一緒ではなかった遺骨と石塔が一緒になりました。
そのため、コスモロジー上の混乱が生じ、お墓の意味が分からなくなってしまったのでしょう。


= 5つの他界スポット =

他界に関わる場所を5つに分けて考えてみましょう。

① 生身では行けない本当の他界 :浄土、常世…
② 生身で行けるこの世の他界   :山中、洞窟…
③ 生活空間との境界としての他界:山麓、村はずれ…
④ 生活空間の中の他界       :寺院、神社…
⑤ 家の中の他界          :仏壇、神棚…

寺院、神社は④だけでなく、②③にもあります。
神社の場合、場所によって「奥津宮」「中津宮」「辺津宮(若宮)」といった呼び分けもあります。
寺院の場合、「奥之院」「山寺」「里寺」といった呼び分けもあります

③に関わるのは、「埋墓」「遺骨」「村墓地」「野辺送り」「もがり」「斎場」…です。
④に関わるのは、「詣墓」「石塔」「寺墓地」…です。
⑤に関わるのは、「位牌」「手元供養」…です。

③にある施設は故人の魂を送るためのものです。
葬送には負の側面があり、死(遺体、ケガレ)を遠ざけようとします。
野辺送りの際、死霊が戻ってこないように、回り道をしたり、途中で回転する儀礼を行います。
また、斎場や式場を居住空間の近くに置きたくない心理的理由もここにあります。

④や⑤にある墓石や位牌は、故人の魂がやってきて宿る依代です。
供養では、浄化された、プラスの価値を持った魂を呼ぼうとします。
来てもらうために、道々に案内用に迎え火(提灯)を灯します。

「霊園」には③と④の両義性があります。
葬送(遺骨)の場所と考えれば、遠く(③)にあるべきです。
散骨や樹木葬はこちらを志向しているのでしょう。
しかし、供養(石塔)の場所と考えれば、住居の近く(④)にあるべきです。
納骨堂はこちらを志向しているのでしょう。


= 葬送の中間スポット =

葬送に関わる儀礼がいくつかあります。

亡くなりそうな人の魂が、離れてしまわないようにする儀礼は「魂鎮め」、「魂結び」と言います。
亡くなった人の魂が荒ぶるのを鎮める儀礼も「魂鎮め」と言います。

亡くなった人の魂を行かせないで戻ってきてもらおうとする儀礼は「魂乞い」、「魂呼ばい」と言います。
「魂乞い」は「恋(こい)」の原義です。
魂(エネルギー)を呼んだり振り動かすことで、魂のエネルギーを高める儀礼を「魂振り」といいます。
「魂乞い」は「魂振り」の一種です。

「魂乞い」は「殯(もがり)」の場所・期間に行われました。
亡くなった人の遺体を放置(風葬)して白骨になるまで待ち、洗骨してケガレを浄化してから改めて埋葬する古代の儀礼を「殯」と言います。
「遺体」にはケガレがありますが、整えられた「遺骨」にはないので祀りの対象となります。

「殯」は生と死の中間期間なので、生き返ることがありうると考えられました。
ですから「殯」の期間は、「魂乞い」を行います。
「殯」は生と死の中間地帯なの、その場所は本来は他界との境界である③に当たります。

『古事記』には、死んだイザナミを追ってイザナギが「黄泉国」に行く話があります。
しかし結局、イザナミの体に蛆がわいているのを見て、別れの言葉を交わして逃げ帰ります。
ここには、戻ってきて欲しい思いと、帰ってきて欲しくない思いの葛藤・諦めがあります。

「黄泉国」というのは地下の死者の国である、という先入観があります。
しかし、「殯」の場所だという解釈が妥当です。
実際、「黄泉国」は坂を上った先(多分、山に向かって)にあると書かれています。
本来、「蘇り(黄泉帰り=ヨミガエリ)」というのは、「殯」の状態からの復活の意でしょう。

「通夜」は「殯」の名残だという説もあります。
火葬は遺体を遺骨するので、一瞬にして「殯」を済ませる意味があると思います。
一方で、中期的には「中有」として「殯」が仏教化されたのでしょう。

(2010)

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