供養の経済と「つながり」の創造

供養と経済とコミュニケーションについて、形になった部分と形になる前の部分という観点から、統一的に論考します。

人と人の「つながり」は、コミュニケーションや経済を通して、組織とともに作られます。


日常意識の世界は、「言葉」や「イメージ」のような「形(表象)」でできた世界です。
コミュニケーションでは、それらを交換します。
しかし、その背景には、「形以前」の世界、「形を作る」世界、「形を超え出る」世界があります。
あるいは「バラバラになった形」の世界、「形を組み替える」世界があります。

フロイトは「表象」しか意識できないと言いましたが、そんなことはありません。
フォーカシング指向心理学でもプロセス指向心理学でも、表象以前の体験を意識することが治療や成長の核心です。
それは「直観」、「直感」として体験される世界であり、芸術的なコミュニケーションの世界でもあります。
そこには「価値創造性」があります。

宗教の核心も、そのような「形以前」、「形を超え出る」体験にあります。
しかし、宗教も、「概念」や「イメージ」になった「形」の世界を作ります。
その「形」の世界が、「形を超え出る」の世界を指向し、その「価値創造性」を高める、そのような宗教が、本当の宗教でしょう。
概念が比喩的になり、イメージが象徴的になり、感情が感動になる世界です。

経済でも同じです。

一般の経済学は主に市場経済を対象にします。
しかし、経済人類学では、「市場交換(金銭による商品の売買)」だけでなく、「互酬(贈与と返礼)」、「再配分(納税と行政サービス)」という3つの交換形式で経済を考えます。
これらは、「形」になった経済です。
それぞれが固有の組織を作ります。

しかし、その背景には、「形以前」、「交換」以前の経済、たとえば、「一方的な贈与」、「強奪」などがあります。
例えば、第一次産業の核心には、自然の創造力である「一方的な贈与」があり、人間の「強奪」があります。
しかし、人はそこに神や自然との形式化された「互酬」の交換を想像して文化を作ります。

最近、大地震に備える話題がよく出ます。
大震災直後の極限状態では、「市場交換」、「再配分」だけでなく、「互酬」も機能しなくなり、「一方的な贈与」と「強奪」だけになります。
震災を想像することはとても興味深い体験です。
確固としていたはずの日常は幻のようになり、新たな「つながり」と「価値創造性」の可能性を垣間見ることができます。

もっと身近にも、「形を超え出る」、「形を組み替える」経済や組織はあります。
例えば、会社で「無礼講」の飲み会をやったとします。
会社組織は基本的には市場交換に基づきますが、日本では同時に互酬的なコミュニティを仮想的に作っていきます。

「無礼講」の「講」というのは、日本の伝統的な「アソシエーション」組織のことです。
「アソシエーション」組織である「無礼講」では、日常の組織での立場や「つながり」を絶って、別の関係を作ろうとします。


供養も同じです。

供養には、形式化されたコミュニケーションや経済の側面がありますが、宗教的核心は別のところにあります。
心の中にある、「自分の人格」と「死者の人格」の間の言葉を超えたなコミュニケーションが、互いの「人格を変容」させていく(つまり、形を超え出す)ことだと思います。

「先祖信仰」の供養の形式化されたコミュニケーション・経済は、「互酬」的なものです。
供物や倫理的約束などを通して、死者の霊魂の地位を上昇させる(祖霊・祖神への普遍化)のが、人から祖霊への「贈与」です。
そして、祖霊による守護が「返礼」です。
霊魂の祖霊化という部分に、「形を超え出す」ものの形式化があります。

本来的な仏教においては、3つの交換とは別の、「布施と回向」という、第4の独特の経済があります。
人は寺院に「布施」し、その「功徳」を(寺院が)転生者に「回向」します。
「布施」や「回向」は「返礼」を期待した「贈与」ではなく、「一方的な贈与」であってこそ「善行」、「功徳」となり、業の法則によって「善果」がもたらされます。
「善果」は「返礼」ではなく、交換はありません。
ここにも、「形を超え出すもの」の形式化があります。
「布施」を商取引のように考えるのは、すでに仏教信仰が失われているからです。

しかし、江戸期のように、国教的な檀家制の場合は、強制的な交換であるため、菩提寺は役所になり、檀家との関係は「再配分」という経済の形になります。
葬儀においてはそれを「互酬」的な「コミュニティ」組織の「葬式組」が支えます。


「つながり」も同様です。

コミュニケーションや経済の交換は「つながり」です。
形になった「概念」や「イメージ」を交換するコミュニケーションには、常にそこに収まり切れないコミュニケーションを潜在的に伴っています。
「市場交換」、「再配分」、「互酬」、あるいは「布施と回向」という形の経済的な交換にも、実際には、形に収まりきれないものを潜在的に伴っています。

それは、コミュニケーションの相手が、人であれ、死者であれ、自然であれ、神仏であれ、同じです。
そのような「形を超え出す」ような「つながり」を重視することが、創造性の核心であると思います。

今、世間一般で言われている「つながり」、「きずな」は、主に「互酬」によって形作られる地縁・血縁の「コミュニティ」のつながりです。
しかし、資本主義(市場交換)の発達によって、互酬的コミュニティが解体されることは止めようがなく、供養にかかわる単価も下落します。

しかし、以前に論じたように、本来、葬儀や供養、通過儀礼は「コミュニティ」組織ではなく、地縁血縁関係から切り離された「アソシエーション」組織で行われてきました。
葬式を担ったのも、中世では「念仏講」などの「講」のアソシエーション的組織です。

アソシエーションは、特定の交換・経済の形に基づきません。
伝統文化のアソシエーション組織では、コミュニティで使う日常の言葉とは異なる言葉でコミュニケーションを行う場合もあります。

つまり、供養・宗教の核心は、特定の形の交換・経済、それらによる特定の形の組織的「つながり」に収まらないのです。
「無縁」や「孤独死」の問題でコミュニティの「つながり」の再興を主張している人には、供養・宗教にはコミュニティからの解放という核心があることも理解していただきたいと思います。

大切なのは、形を超えた価値創造性を重視することで、「互酬によるコミュニティ的つながり」でもなく、「市場経済のアトム的つながり」でもない、新しい「つながり」によるソーシャル・キャピタルを作ることだと思います。

(2012)

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