清めの戦い(中世から)

大和の大元の聖地は三輪山。
その裏から流れる初瀬川の脇にある長谷寺は、大和、三輪の奥之院に当たります。
実際、いち早く神仏習合を進めた三輪流神道は、長谷寺と連携し、三輪の大神神社の若宮の本地を、長谷寺の本尊の十一面観音としました。
若宮は豊穣神ですが、その本地の十一面観音は、大和の命をはぐくむ水を提供する水神(川の女神)を背景に持ち、大和の「根源神」とも言えます。
その十一面観音像には多数の面があり、裏面は、「暴悪大笑面」です。
これが、裏の裏、根源の根源の表現なのでしょうか。

この初瀬川から三輪大神の社前に流れてきた壺から生まれたという伝説を持つのが、聖徳太子の経済行政面の寵臣であり、能楽の祖とされるようになった秦河勝です。
秦河勝は、「大避大神」としても祀られています。

ヤマト言葉の「サク」は、実が「裂ける」、花が「咲く」など、創造的な力の現れる瞬間を表現します。
「大避」の「サケ」もこの意味でしょう。
つまり、大避大神は、「根源神」です。

縄文以来の原住民の神に「シャグジ神」という神がありますが、「サク」=「シャグ」かもしれず、大避大神は、この古来の原住民の神を受け継いでいるようです。

実は、秦河勝は、晩年、おそらく藤原鎌足の政略によって流罪となり、播磨の坂越に流されました。
そのため、怨霊となり、「大荒大明神」として祀られたと伝えられています。

能楽の祖が怨霊だったことは、極め重要な意味を持つハズです。
ちなみに、世阿弥も晩年、佐渡に流されています。


中世に「清目」と呼ばれる人がいました。
死体の処理や「葬送」を行った被差別民を指します。
死のケガレの清め役です。
ケガレだ存在にケガレを処理させる構造です。

と同時に、「清目」は、能楽師をも指しました。
観阿弥や世阿弥の本名は「清次」、「元清」ですが、「清」がつくのもこれが理由でしょう。
能楽は本来、怨霊の鎮魂、供養、つまり、魂のケガレを清める、宗教的・呪術的な儀礼でした。
ですから、墓場で怨霊を鎮魂する「夢幻能」が行われることもありました。

それゆえ、能楽師もまた、蔑視を受けました。
能楽師に限らず、芸能者は被差別民となりました。
ここにも、ケガレた存在がケガレを払う構造があります。

大和の北端の奈良坂には有名な被差別民の居住地(「宿」)がありましたが、そこにある奈良豆比古神社で、能楽が発達したことも、能楽師と被差別民の関係の深さがうかがえます。

秦河勝が流れ着いた「坂越」も「坂」ですし、大和の境界に位置する「奈良坂」も「坂」です。
「坂(サカ)」、「境(サカイ)」は、「先(サキ)」、「岬(ミサキ)」と含めて、「サク」と同系統の言葉でしょう。
つまり、先端部分に、創造が現れるということです。

場所で言う「坂」、「境」、「岬」は、それゆえ、聖なる場所でもあり、「ケガレ」もある両義的な場所であり、浄化が必要な場所、被差別民が住む場所でした。


その能楽師などの芸能者や被差別民の多くが信仰した神は、「宿神」です。
「宿(シュグ)」=「シャグ」であり、この神は、「シャグジ神」の中世的形態とも言われます。
被差別民の居住地が「宿」と呼ばれたことも、関係しているのかもしれません。

僧侶は阿弥陀仏に取り成して、死者の極楽往生の手助けをしたと考えられましたが、宿神は、阿弥陀仏の「守護神」でもあるとされました。
能楽は、修正会などの時、本尊の後方の空間で演じられていたようです。
その神が宿神であったため、宿神は「後戸の神」とも呼ばれました。

「守護神」というのは、本来は護衛役ですが、その宿神を、単なる「守護神」ではなく、仏を生む「根源神」であると考える者が現れました。
「後」、「裏」は「根源」であると。

この宿神論を展開した代表は、天才能楽師の金春禅竹です。
これは都合勝手な解釈ではなく、古来の神「シャグジ神」の性質を正しく表現したのだとも言えます。

宿神が「根源神」であるのなら、抽象的に考えれば、それは「仏」でもあり、長谷寺の十一面観音でもあります。
宿神を「根源神」と考えて、それを信仰することには、「清め」、「魂の浄化」を生業にした芸能者、被差別民のプライドを見ることができます。


鎮魂儀礼としての能楽の核心は、猿楽の「式三番」にあります。
能も狂言も、ここに始まります。


式三番では、「翁」が「千秋万歳」、つまり、恒久の天下泰平、支配者の秩序が続くことを祈ります。
この「翁」は、国つ神であり、先祖神であると考えられます。
ですから、天つ神に支配された神という側面もあります。

金春禅竹は、「翁」が「宿神」であると言います。
「宿神」が原住民の神を受け継いでいるのから、当然、そうなります。

式三番は、翁の謎のセリフ、「とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりどう」から始まります。
これは、「尽きることのない水の流れ」を表現しているのでしょう。
そして、これは、初瀬川の流れだと言っても間違いではないでしょう。

式三番では、この後、「黒色尉」と呼ばれる黒い翁面をつけた「三番叟」と呼ばれる翁が登場します。

おろらく、「白い翁」(白い面=白色尉をつけた先の翁)が、本来の先祖神なら、「黒い翁」は、怨霊となった先祖神でしょう。
二人が別の神というより、支配されざる側面と、支配された側面と言ってもいいかもしれません。
いや、支配されているように見せる表の面と、支配されていない裏の面かもしれません。


式三番では、「白い翁」は「天下泰平の喜びを舞う」と言いながらも、ほとんど舞いません。

続いて、「黒い翁」は、最初の「揉みの段」で、「喜びがあるなら、私のところより外へはやらない」と言って、喜びの激しい舞を舞います。
いや、「舞う」ではなく、「踏む」と表現されます。

次の「鈴の段」では、貴人(支配者)の天下泰平のために舞ってくれと頼まれて、鈴を受け取って、しぶしぶ舞います。


式三番は何を表現しているのでしょうか?

日本の古来からの怨霊信仰(御霊信仰)では、エネルギーのある怨霊神が守護神=御霊になるのが通常です。
つまり、恨みを持つハズの怨霊が、エネルギーを持っているがゆえに、祀られることで、他の悪霊などを鎮める存在になるのです。
仏教的には、護法神となった憤怒の守護神が、悪霊を調伏します。
ここにも、ケガレた存在がケガレた存在を払う構造があります。

この鎮魂、調伏が式三番の目的であり、「鈴の段」において行われています。

しかし、「黒色尉」の面は、ヒョットコのような口が曲がっている面が古形という説があります。
これは、「うそふき」を意味します。
つまり、「翁」は支配者に向かって天下泰平を祈りますが、これは本心ではありません。

「翁」の裏面であり、本来の姿である「黒い翁」は、恨みを持って死んだ怨霊や、支配されている仲間に向かっては、権力者の泰平を祈るのがウソだと分かるように、舞ったのでしょう。
面従腹背です。

「揉みの段」において、「黒い翁」として、自然な本来の、エネルギッシュな喜びの舞いを舞っていることが、それを示しています。

これが、日本の芸能の一つの根源でした。
ちなみに、「狂言」は三番叟から生まれました。
裏の裏、根源の根源と言える「黒い翁」は、先に書いた、十一面観音像の裏面である「暴悪大笑面」とも似ています。


では、本当の鎮魂、魂の浄化とは何でしょうか?

支配者の作る価値観、それが生む差別、死がケガレという観念、支配的宗教、これらすべてをひっくり返す、そういう思想を持って舞うことでしょう。
そのためには、支配的宗教の神よりも「根源的な神」である「宿神」を旗印にし、その根源的な力の側から、支配的宗教・価値観を相対化する必要があるのです。

これが禅竹や能楽師、清目が考えた、「救い」の思想だったのでしょう。

その核心の表現が、「揉みの段」における「黒い翁」の舞いです。
ここで、その根源的な力を表現しています。

根源的な力、創造力こそが、それを制限するものを抑えます。
喜びのエネルギーは、それを肯定する側には喜びの姿を現し、それを制限しようとする者に対しては、忿怒の姿で現れるのです。
そして、それは、偽の支配的な秩序を否定し、それを抑えます。

これは、「鈴の段」が表現すること、つまり、怨霊が悪霊を沈めること、蔑視された者が死のケガレを払うこと、支配された者が支配者を護衛すること、とは異なります。


中世のインドでも、ほぼ、同じことが行われました。
中世の仏教は、アウトカーストなどの被差別民・原住民の「墓場」の宗教を取り入れました。
そして、支配的ヒンドゥー教や、従来の権威的仏教も否定して、密教として生まれ変わりました。

護衛役だったはずの「金剛手」などの守護神、悪鬼・魔女の類だったはずの「ダキニ」が、最も根源的な尊格である、「本初仏」や「仏母」になりました。
日本の「宿神」と同じです。
また、多くの尊格、特に本尊は、忿怒相や歓喜相、踊る姿で表現されます。

こうして、原住民の宗教の闇の部分、両義的な部分を取り入れて昇華することで、既存の2元的な価値観、差別意識を乗り越えようとしました。


葬送や、供養における本当の魂の浄化の作業は、こういった既存の支配的価値観を越えるための戦いでした。


* 秦氏は渡来民であって、原住民ではなく、有力者も多くいました。
しかし、渡来民としてはマイノリティであり、様々な職能を持つ者であったため、差別を受けた者もいたのでしょう。
能楽を発達させたのは、政略で追われた秦氏の子孫だと思われますので、特に、彼らは、蔑視を受け、原住民の宗教との接点も多く持つようになったのでしょう。

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