無縁

NHKの特集以来、「無縁社会」がメディアで取り上げられることが多くなっています。

池田信夫もブログで「無縁・公界・楽」というタイトルで書きました。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51407019.html

網野善彦の『無縁・公界・楽』を紹介しながら「無縁社会」キャンペーンにコメントしています。
『無縁・公界・楽』は、私のコラム「コミュニティ供養とアソシエーション供養」で参考としてあげた本です。

池田信夫の文章は、人間には「自由⇔共同体」、「個⇔集団」という二律背反があり、今回の「無縁社会」キャンペーンが自由を奪う共同体回帰になることを危惧する、といったようなトーンの内容だと思います。

しかし、池田信夫のように「個⇔集団」の二律背反を立ててしまうと、出口はなくなります。
網野善彦の「無縁」は必ずしも「個」の領域や原理ではなく、「村落共同体」や「封建権力」とは異なる組織領域や原理です。
そこから自由な組織形態を探るよう論点を立てないと意味がないと思います。

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「無縁」という言葉は、中世でも、共同体や封建領主の側からは、現代と同じように否定的な意味で使われました。
しかし、「無縁」の側の人間、特に仏教側は積極的な意味で使っていました。
中世に「無縁」は「公界」とも「楽」とも呼ばれたのですが、これらはいずれも仏教用語から来ています。

仏教の慈悲は、共同体の価値観や自我・主観と無関係な平等な境地から生まれるものですが、「無縁」はこのような境地を意味していたようです。

「公界」はもともとは俗世間を離れた「修行場」のことであり、後に「世間」の意味に変わっても、自由を自覚した領域として使われました。 
我々は共同体を公的な領域だと考えがちですが、共同体は私的な領域にすぎず、その外こそが普遍的な公的の領域だという見方でしょう。

「楽」は浄土を形容する言葉から来ています。
「楽市・楽座」の「楽」であり、自由市場の肯定につながります。

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池田信夫は「無縁」の代表を漂白の芸能民として見ているように読めます。
そして、少数派にすぎないと言います。

池田信夫は知らないのでしょうが、網野の「無縁」の研究は、伊藤正敏に受け継がれています。
(『寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民』『中世の寺社勢力と境内都市』など)
伊藤正敏の研究は、日本の中世の歴史観を変革するような刺激的なものです。

伊藤正敏は中世前期に関して、「無縁」の代表として、寺社勢力をあげています。
寺社勢力は幕府に匹敵するような力を全国に持っていました。

大規模な寺社は広い領地を持ち、そこで商工業が盛んに行われていました。
伊藤正敏は個々の大寺社が「都市」であったと言います。
そして、これらを「境内都市」という概念で捉えています。

中世前期の経済は(特に近畿は)、完全にこのような多数の「境内都市」が担っていました。
中世の日本を農村社会として捉える歴史観は間違っていると言います。

京都も事実上、比叡山の末寺であった祇園社の「境内都市」でした。
京都の金融業の80%は比叡山の配下にありました。

寺院勢力と言っても、上層部の学侶は封建権力の側の官侶であり、領主としての性質を持っていました。
しかし、「境内都市」で実権を持っていたのは、「行人」と呼ばれる多数の下層の僧で、実際には商工業に従事していました。

つまり、「無縁」の多くは、単に「縁」がないという否定的な意味でもなく、「個」の世界でもなく、寺院勢力によって保護され、共同体や封建領主から自由な、市場経済が発達できる「都市」のことでした。

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しかし、南北朝期をはさんで、中世後期には構造変化が起こります。

貨幣経済の発展、寺社の権威の低下によって、「境内都市」は自治組織を生み出し「自由都市」に変化します。
伊藤正敏は歴史学者が「惣村」と呼んできたものも、村落ではなくこのような都市であったと言います。

また伊藤正敏は、「家制度」はこの時期にできたもので、「自由都市」において組織を持続させるために作られた制度であり、「経営体」であったと言います。
また、家に基づいて新しい身分制が生み出されました。

こうして、中世後期には「無縁」社会が徐々に「有縁化」していきました。

一方、盛んとなった下克上は、「有縁」世界の「無縁」化を意味します。 
秀吉は漂泊の商人、つまり完全な「無縁」の出でありながら天下人になりました。
その秀吉の刀狩によって寺社の武装解除が行われ、中世的「無縁」は終焉に向かいました。

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かつての寺院は共同体に反する「無縁」の原理を体現していました。
そして、葬儀も同じく「無縁」やアソシエーションの原理が担っていました。

寺院勢力と「無縁」は武家政権によってつぶされ、市場経済も統制されるようになりました。
現代の資本主義が、共同体と寺院の檀家制を解体するのは、その逆襲のように思えます。

現代の孤独死問題に対して、共同体ができること、行政ができること、企業ができることはそれぞれあるでしょう。
しかし、寺院の役割や葬儀のあり方に関しては、共同体幻想や資本主義に限定されない自由を求めて、本来の「無縁」の原理やアソシエーションの立場から考えることが重要だと思います。
(2010)

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