中島隆信『お寺の経済学』批判

中島隆信氏の仕事の特徴は、経済学があまり対象にしていないような領域を経済学的な発想によって分析することです。
私は寺院関係のものしか読んでいませんが、彼が行っていることは根本的にナンセンスな部分があると思います。
経済学の対象を広げようとしているにもかかわらず、経済学が拠って立つ「市場」の概念や、経済学の理論的枠組について無自覚だからです。

彼は、信仰を「信仰市場」や「商品交換」としての「信仰サービス」として扱おうとします。
もちろん、それを普通のサービスではないと言いますが、それを「市場交換(商品交換)」という経済学の観点から考えることが中島隆信氏のやろうとしていることです。

近代経済学は自由競争が行われる「市場」と、「合理的」に経済活動を行う主体を前提に理論を構築しています。
近代経済学が扱える「市場交換」が成立する領域は限られています。
しかし、カール・ポランニーなどの経済人類学や、マルクスは、市場交換に限定せずに、すべての経済活動・交換形態を分析しようとしています。

経済人類学では3つの交換形態を考えます。

例えば、純粋な共同体の中では贈与・返礼という「互酬交換」だけしかなく、「市場交換」は存在しません。
家族内にもサービスのやり取りがありますが、これは「互酬交換」であって、ここには市場的な要素はありません。
ですから、家庭内のサービス関係を近代経済学の理論では扱えません。
「互酬」の交換なら心理学的・社会学的な理論的枠組が必要になるでしょう。

税金や行政サービスは「再配分」という交換形態であって、これも市場ではなく経済学の理論では扱えません。
「再配分」の交換なら政治的な理論的枠組が必要になるでしょう。

私は今回の論考で、仏教その他における布施、功徳、供養などの様々な交換が、どんな交換形態になるかというところから考えています。
まだ誰も研究していない分野ではないかと思います。

中島隆信氏はすべてを市場交換だけで捉えようとし、経済学の理論で扱える範囲についての無反省です。
具体的に、見ていきましょう。

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中島隆信氏はタイの仏教について、下記のように分析します。

厳格な生活を営むタイの僧は徳を「生産」している。
そして、一般信者は布施をして一時的に寺院で修行することでその徳をもらっている(取引している)。

彼は仏教の信仰を市場において売買されるものと考えています。

しかし、功徳は寺院からもらうものではなく、布施や修行という善行によって信者自身が生産するものです。
また、タイ仏教(上座部仏教)では、僧などが徳を信者に振り向ける(回向する)ことは論理的に認められていません。
これは基本中の基本であって、タイ人なら小学生でも知っていることです。

この仏教の論理をそのまま認めるかどうかは別にしても、タイの社会・文化の根底に根付いたタイ仏教を、市場経済の論理で分析することは無理があると思います。

また、彼は江戸時代の檀家性に基づく仏教を分析して、信仰市場において寺院が保護されていたために、顧客に対するサービスの質が落ちたと言います。
現代の国によって保護された業界の生産性が低下することと同様なものとして、市場経済の理論的枠組で考えています。
しかし、100%強制的な制度である檀家制の元では、近代経済学が言う「市場」は存在しないでしょう。

現代日本のように、市場経済が日常の隅々まで浸透し、宗教の自由・宗教離れがあり、各寺院が独立した宗教法人として経営を行っている社会の感覚を、江戸時代やタイに適用することは間違っています。

寺院が信仰サービスを檀家に提供する、と考えることは問題ありません。
しかし、先に書いたように、江戸時代の寺院と檀家の関係は「再配分」という形の交換・経済形態に近いと思っています。
それなら、比べるべきは、強い権力を持ったお役所のサービスが悪くなるということでしょう。

ちなみに中島隆信氏は神社の現世利益のための賽銭に関して、それが「契約金」であると言います。
しかし、神社の賽銭は「贈与・返礼」の交換です。
「贈与」が神に債務を果たしているのです。
日本の民俗や神道にはユダヤ・キリスト教のような契約の概念はありません。
市場交換もありません。

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しかし、『お寺の経済学』の「お寺はタックス・へイブンか?」の章は興味深い内容です。
この章では、信仰を市場として捉える立場を自ら否定しています。

寺院のサービスが、お金のもらう側なのに「ありがとうございます」と言われる立場であり、これは、寺院が市場での取引として対価をもらっているのではなく、「お礼」としてもらっているのだと言います。
これは、信仰を「市場交換」ではなく、「互酬的交換」であると言っていることになります。

また、宗教法人が免税なのは、それが公共サービスであり、免税ということは事実上、補助金をもらっているに等しいと言います。
これは、信仰を「市場交換」ではなく、「再配分」の交換であると言っていることになります。

つまり、信仰を市場交換として捉える基本的立場が否定され、互酬や再配分などの観点に行き着いているにもかかわらず、自分が言っていることに関して理論的に無自覚です。

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