大乗の浄土信仰と本願力回向

(続き)
大乗仏教の浄土信仰では、大きな思想的転換があって、功徳も供養も不要となります。

経典や宗派にもよりますが、大乗仏教は有神論化し、「信」を重視する「宗教」に変質しました。
多分、西北インドに相次いで侵入したイラン系王朝の元、ペルシャ・ヘレニズム文化の影響を大きく受けたからでしょう。
特に浄土思想は、典型的に仏教がペルシャの宗教と習合して生まれたものでしょう。

阿弥陀仏の「極楽浄土」は、あの世でも涅槃でもなく転生先です。
大乗仏教では、我々のこの世界の他にもたくさんの世界があると考えます。
「極楽浄土」は西方にある世界(他土)であって、釈迦が説法したこの世界(此土)ではありません。
基本的にそれぞれの世界に六道がありますが、「極楽浄土」には神々と人の2つの世界しかありません。
浄土は清い世界なので、修行が良く進む場所です。

「大無量寿経」によれば、善人と普通人は、自分の善行の功徳を極楽往生に対して「回向」すると浄土に行けます。
つまり、「自業自得」が前提で、往生の目的に絞って自分自身に「回向」する、ということです。

しかし、悪人でも念仏を唱えると向かえに来てくれます。
一神教に近い有神論的な「信」の宗教となった浄土系仏教では、「自業自得」ではなく阿弥陀仏の力によって浄土に行けることにしたのです。

これを突き詰めると、「絶対他力」の浄土真宗になります。
浄土真宗では、阿弥陀仏が自分の功徳を「回向」して救います。
この「仏の回向」がすべてなので、人間が行う「功徳」や「追善供養」は否定されます。
少なくても表面上は、仏教が「自業自得」の原則から180度方向転換したことになります。

しかし、上座部仏教によると、仏は輪廻から解脱した存在なので、「功徳」とか「回向」とか輪廻に関わる論理は当てはまりません。
つまり、仏は一切「功徳」を持たず「回向」もできません。
これが本来の仏教の論理です。

浄土思想では「本願力」という新たな考え方が作られ、阿弥陀仏の力(回向)の根拠とされました。
浄土に人を救うという「請願」をして仏になったのだから、願は実現されるという呪術的な論理です。

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まとめてみます。

仏教本来の論理は「自業自得」です。
しかし、先祖信仰と習合する中で「回向供養」という考え方が生まれました。
一方、一神教的有神論化する中で「本願力回向」という考え方が生まれたのでしょう。

「自業自得」、「回向供養」、「本願力回向」はいずれも互いに矛盾するものです。
しかし、これらを折衷したものが日本仏教の全般的傾向でしょう。
世界の仏教の中で、浄土思想を重視するのは東アジア、特に日本に独特な現象です。

例えば、チベット仏教は大乗仏教ですが、インドで発展した仏教を忠実に引き継いでいます。
そのため、初期の大乗仏教である浄土思想の影響は限定的で、先祖信仰との習合も少ないです。

ですから、チベットでは「自業自得」による六道輪廻と、すべての生き物への回向が原則です。
ただ、「中有」の間は転生先を変える可能性が残っているので、死者に説法を行います。
その後の供養にはあまり意味を置かず、お墓もありません。

ところで、仏教にとって善行は無私の行為です。
しかし、「自業自得」によって善行の功徳が自分のためになると意識した途端、それは無私の行為ではなくなり、自我を強める悪行になります。
そのため、修行や善行の功徳はすべての生物に「回向」する、という考え方・習慣が徹底されます。
しかし、それが自分のためになると考えた途端、また同じことになります。

実は、「絶対他力」も無私に至るための方便となります。
しかし、それが自分のためになると意識した時点で、自力に引き戻されるという点では、「自業自得」と同じ逆説があるのです。

(続く)

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