まとめ

「仏教思想と供養」のテーマで書いてきた一連の論考のまとめです。
古い投稿から順にお読みください。


最古の経典では釈迦は死後について語らず、教義を持つこと、宗教儀式、戒律を否定しています。

インド新仏教は「合理的」に魂も転生も否定するので、葬儀や供養にも意味も置きません。

上座部仏教、チベット仏教は「自業自得」を重視し、「回向」はすべての生き物に対して行います。
上座部では正式には、先祖供養は「餓鬼」の供養で、追善供養はこれを通して結果的に効果があるものでしかありません。
チベット仏教では、「中有(四十九日まで)」の間の説法を重視し、多分、上座部と同様な意味では、追善供養を認めます。

浄土思想を突き詰めた浄土真宗では、阿弥陀仏の「本願力回向」が絶対です。
ですから、葬儀には葬送や供養の意味はなく、機縁のためであり、追善供養も認めません。

日本の一般的な仏教は、先祖信仰と習合しています。
死者は「常世」のような「浄土」に行きます。
祖霊が「祀られる」ことで浄化されて「氏神」になるように、「追善供養」によって修行が進んで「仏」になります。

先祖信仰との習合は、仏教的な論理では矛盾を含むものになります。
しかし、これまでのコラムで書いてきたように、心理学的に考えるなら、先祖信仰の世界観は妥当性のあるものです。

つまり、自分の人格の成長と潜在意識内の故人の人格の成長は同時である、という心理的現実にマッチするのは、自分の功徳と平行して浄土にいる故人の修行も進む、という日本仏教的な供養観です。
ただ、功徳はすべての生き物に回向して初めて、結果的に故人の供養になる、という逆説的な供養観が必要になると思います。

従来の先祖信仰と日本仏教の習合は、「大家族」で構成される社会で成立したものでしょう。
現在、社会の単位が「核家族」、そして「個族」へと変化しているので、従来の先祖信仰も習合仏教も成り立ちません。
「千の風になって」のように、故人の魂が自然の霊に戻るような死後観になるでしょう。
それはむしろ、先祖信仰と習合していない仏教や、部族文化時代の先祖信仰に近いと思います。

仏教として見ても、世界的に21世紀の仏教として広がっているのは、死後観や供養と関係の薄い仏教でしょう。

(2010)

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