映画「殯(もがり)の森」 の死生観とグリーフワーク

『殯(もがり)の森』は一昨年、カンヌでグランプリを受賞した河瀬直美監督の映画です。
『おくりびと』と同じく海外の有名な映画祭で受賞をし、死生観を扱った映画であるにもかかわらず、あまり話題になりませんでした。

それは、この映画が一般の映画のような分かりやすい作りではなく、とても難解だからでしょう。
実際、観客に分かりやすく説明するという意図を持たず、登場人物のせりふも半ば聞こえず、ストーリーを理解することすら難しいような映画です。
おかげで、受賞作にもかかわらず、多数の酷評、誤解した評論を受けました。

しかし、グリーフワークと日本人の死生観を真正面から扱った映画ですし、『おくりびと』以上にディープで品格のある映画だと思いますので、論評してみたいと思います。

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「殯(もがり)」は日本古来の葬祭の習慣ですが、時代と共にその内容や解釈は変化しているようです。
この映画では最後のテロップで、「殯」は喪った人を尊び忍ぶ、時と場所のことで、それが「喪上がり」が語源とあると説明されます。
ストーリーと合わせて判断すると、この映画における「殯」は、グリーフワークであり、グリーフワークの終了を意味しているようです。

「野辺送り」の場面から始まるこの映画の舞台は、豊かな自然の森の近くにあるグループホームです。
主人公のしげきは33年前に妻を亡くした認知症の老人です。
妻との思い出に閉じこもり、他人とのコミュニケーションをほとんど断っています。

ここに介護の新人の真千子がやってきます。
彼女は自らの過失で子供を喪い、そのせいで夫から責められ、離婚した若い女性です。
子供を亡くしたことを、まだ整理できないでいるようです。

しげきは33回忌(弔い上げ)を迎えて、供養を終えるべき人物です。
しかし、過去の体験に閉じこもることでグリーフワークを正常に終えていません。
ですから、この期にグリーフワークと供養を同時に終えるべき人物です。
そして、真千子はしげきを模範にしてこれからグリーフワークと供養の道を歩む人物という設定なのです。
ネットで多数の映画評を読みましたが、この基本設定を押さえているものすら、一つもありませんでした。

しげきは認知症の老人です。
老人ということは、グリーフワークと供養の完成が、同時に人生・人格の完成と重ねられていることを示しています。
このことで、グリーフワークや供養を、単なる悲嘆回復や社会への再適応という観点を越えて、最も深い部分で捉えることになります。
認知症は、社会的常識に捉われないというプラス面で捉えられているようで、このことで、この困難な作業が可能となります。

一方、真千子は自らの過失で子供を喪ったため、亡き子とのつながりを持てずにいるのでしょう。
グリーフワークの困難となる事例の代表です。

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物語の中で、しげきの死んだはずの若い妻が、現在のしげきと一緒にピアノを弾くという形でいきなり登場します。
しげきは幻想の中で、亡き妻とのつながりを維持しています。

しげきは妻との思い出の品をリュックに入れて保管しています。
真千子がリュックを片付けようとした時、しげきは真千子を突き飛ばします。
しげきは亡き妻とのつながりを持っていますが、過去の世界に閉じこもり、真千子を受け入れません。
しかし、33回忌を向かえ、このような妻とのつながりを終わりにしなければいけないことを自覚しています。
真千子にとっては、しげきの拒絶は、亡き子からの拒絶、夫からの拒絶の反復であり、これによって自信を失います。

しかし、時には、しげきは真千子と子供のように自然の中で戯れ、遊ぶこともあります。
ここに二人の開かれた可能性が垣間見られます。

物語の前半で、何度か、濃密に生い茂った「森」の映像が挿入されます。
森は、生と死の根源としての、計らいのない自然な、創造力の領域であり、基本テーマとして物語を導くことを暗示します。


ある日、しげきは真千子に付き添われて、山の中にある妻の墓参りに出かけます。
しげきを先頭にして、妻の墓のある険しい山に分け入ります。
しげきはもちろん、例のリュックを背負っています。

二人は歩き疲れ、雨も降り出します。
しげきが、水流が激しくなった沢を渡る際、真知子は「行かないで」と絶叫します。
真千子は子供を喪った時のことをフラッシュバックして気を動転させているようです。
真千子の子供は川を渡ろうとして溺れて死に、真千子はそれを止めることができず、このことを後悔し続けているのでしょう。
しげきは、直感的に、真千子が自分と同じ、深い悲しみを持っていることを悟ります。

二人は体を寄せ合って、森の中で一晩を過ごします。
真千子はしげきに子供を重ね、しげきもどこかで真知子に妻を重ねているようです。
グリーフワークでは、とめどもなく蘇ってくる過去の記憶を、亡き故人への安定した思慕の感情にくるんで新たに整理しなおすことが必要です。
今の関係と過去の体験を重ねることで、自分の心を理解することができます。
つまり、新しい関係を築くことと、過去の関係を自覚し、新たにすることが同時です。

しげきが目を覚ますと、森の中に妻が現れます。
無言のままに、二人は一緒に手をつないで楽しく踊ります。
しげきは、森の中に入り、墓に近づくことで、妻とのつながりをより濃密に感じつつあります。
真千子には何も見えませんが、すべてを直感します。

二人はさらに進みますが、いつの間にか、しげきがこれまで決して真千子に触らせなかったリュックを、真千子が背負っています。

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二人はやがて、しげきの妻の墓を見つけます。
森の真っ只中の、多分頂上付近の大木の近くです。
小さな木を立てて墓標にしただけの、墓とは思えないような粗末な墓がありました。

しげきはリュックを開きます。
ここには長年書き綴ってきた日記と、妻が好きだった曲のオルゴールが入っていました。
しげきは日記を墓に差し出します。
妻に語りかけた記録でしょう。
しげきは土を掘り、そこに寝転がり「土の中へ眠ろう」「気持ちいい」「もういいからね」とつぶやきながら、眠るように安らぎます。
ここに、しげきは亡き妻とのつながりを新たにし、グリーフワークと供養を完成させます。

しげきの中で、亡き妻は、森、大地、死後の世界の創造力、生の根源と一体化しました。
そして、しげきもそれに一体化しました。
しげきは妻への思慕を昇華し、グリーフワークと供養を終えます。
グリーフワークと供養は、根源的な創造力、普遍性とのつながりとして完成します。
老齢であるしげきの場合、これは同時に人格の完成であり、死への回帰でもあります。

真千子はしげきに「ありがとう」と言います。
故人との濃密なつながりを獲得することができることを示してくれたことへの謝礼です。
そして、オルゴールを鳴らしながら、天を見上げ、泣きながら微笑みます。
彼女が見上げる先にいるのは、しげきの妻ではなく、真千子がこれからつながりを確立していこうとしている自分の子でしょう。

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「殯」の本来の意味は、森に遺体を置いて白骨化させる儀式だったようです。
この後、遺骨を正規の先祖の墓に埋葬しました。
「殯」は、故人が生から死へと移行する中間的な期間です。
仏教の「四十九日」に似たもので、通常は数日から数週間のスケールのものでした。

一方、グリーフワークは、悲嘆を回復し、新たな人格の確立、再社会化を行うもので、数年のスケールのものです。
また、「弔い上げ」は故人が個性を亡くして完全な祖霊化が完成するもので、数十年のスケールのものです。
人生を集大成し、人格を完成させ、死へ備える「老年期」「終末期」は、また別のものです。

この映画は、この4つを充分区別せず、混乱を含みながら重ねているようです。
こうして、グリーフワークや供養を、根源的なものへのつながりにまで深めて提示することに成功しています。
しかし、通常のグリーフワークに必要な、新たな生活に向けた人格・社会関係を確立といったテーマは抜け落ちます。
また、普遍化されたグリーフワークや供養を、現実社会の中で生かす視点も扱えません。
(2009)

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