柳田と折口の先祖観

柳田國男は、人が死ぬと、子孫に祀られることによって、徐々に個的な性質を落とし、30年ほどかけて、やがては集合的で普遍的で浄化された霊魂(氏神・先祖霊・祖神・祖霊)になると考えました。
先祖は山で子孫を見守っていますが、盆や正月などに村や家に戻ってきます。

ちなみに柳田説では、子孫が手厚く祀らないと故人は幸せになれません。
ですから、供養業界から消費者に対する効果的な「恫喝」の理論となります。
さらに、子供を作らない人の死後生を差別して、傷つけます。

折口信夫は昭和24年に2人で行った対談や、『民族史観における高い観念』で柳田説を真っ向から批判しています。

柳田にとっては、先祖は個人ではないけれど人格的な存在です。それが個々の家に分かれて戻ってくる時はその家の先祖となります。
折口にとっては、死後の霊魂は、先祖とは言えないような、非人格的なただの霊魂、「力」のようなものになると考えました。
村や家に戻ってくる先祖に相当する存在を、折口は「マレビト」と呼びました。
沖縄のアカマタ・クロマタや、秋田のナマハゲなどがそういう古い形を残しています。

柳田は、普通の日本人(「常民」)が持つ世界観、マジョリティとしての日本のアイデンティティに興味を持っていました。
一方、折口は「常民」に差別されていた漂白する芸能者などのマイノリティに親近感をいだき、国に限定されない自由さを求めた人でした。

柳田にとって先祖は氏族の同質性・アイデンティティの根拠となるものでした。
一方、折口にとっては、先祖=マレビトは、まったく異質なものであることによって、アイデンティティをゆさぶり、共同体を活気づけるものでした。

柳田は先祖信仰としての氏神信仰を、日本人の宗教として捉えようとしました。
一方、折口は宗教とならない自由な霊魂観を求めました。

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日本の「民俗学(フォークロア)」は、その創成期には、日本帝国の植民地下だった台湾先住民などのデータを元にした、「民族学(エスノロジー)」的なものでした。
台湾先住民(高砂族)は日本人の原像とも考えられたのですが、海を渡り、村を移動させる、反国家的な自由の民と捉えられていました。

ところが、戦争を挟んで、柳田理論の完成と共に、「民俗学(フォークロア)」は日本という国に閉じこもった「一国民俗学」になってしまいました。
一方、日本の「民族学(エスノロジー)」は、柳田と袂を分かち、折口に親近感を持っていた岡正雄らによって作られ、日本の中にある文化の多様性を実証していく学問となりました。

実は、柳田も民族学に関心を持っていて、若い岡に期待して「民族」という雑誌を一緒にやっていました。
折口は彼にとって重要な論文となる『常世及び「まれびと」』を「民族」に送ります。
この論文は柳田の『山人論』を批判的に乗り越えたものでした。

岡はこれを掲載しようとしますが、柳田はジェラシーから拒否します。
岡は折口の論文を民族学や経済人類学の観点から補強して先に論文『異人その他』を発表してしまいます。
これは折口に対してはマナー違反であり、柳田に対しては反抗でした。

これに対して柳田は、2人の理論「マレビト論」と「異人論」を黙殺、抑圧して自分の「常民論」を作り上げます。
柳田理論、つまり日本民俗学は、折口や岡が解明した日本文化の多様性や、異質なものを許容する側面を意図的に隠蔽することで生まれたのです。
こうして、柳田説は、日本が一民族一文化の社会だという幻想に基づく、差別のイデオロギーとなりました。


折口は、柳田説の世界観は近代以降の日本人の世界観を単純化したものと考えていました。
それに対して、折口は国家に限定されない自由さを持つ古代人の世界観に関心を持っていました。
民族学(文化人類学)が明らかにしたことですが、部族文化は、皆が常に根源的なもの(他界的なもの)に触れることで、国家が持っているような権力の集中を生まないようにしている文化です。

折口が考えた古代人の非人格的な霊魂というのは、根源的なもので、純粋な生命力、創造力のようなものです。
折口はその霊魂観を、アニミズムやトーテミズムを分析したモースやデュルケムの説を参考にしつつ、日本古代の文献から抽出しました。

世界的に伝統的な部族文化では、特定の氏族は特定の動物などを「トーテム(=先祖)」としています。
トーテム動物は心理的には人間の潜在意識の中にある、ある種の創造力の象徴です。
人間の心の中には、「人間(人格)」に限定されないような可能性があって、その可能性の部分を「先祖霊=トーテム」として捉えていたわけです。

部族には様々な氏族がありそれぞれのトーテム動物があります。
ですから、部族全体の先祖を考えると、特定の動物ではない、あらゆる可能性を秘めた根源的な霊魂となります。

折口は神道の中では、「ムスビ(産霊)」という観念が、純粋な生命力、創造力を表すものだと考えました。
折口はこれが、神道の中にあって、どんな宗教にも限定されないものだと考えました。

そして、ムスビを基本原理にして、神道を一神教的な宗教として止揚することで、日本帝国の国家神道ではない、大東亜共存圏の自由の宗教にすることができる。
それもイスラム教をも包含するような宗教にすることができると構想しました。

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最近のグローバリゼーションによって、資本主義経済は完全に国を超えた存在になりました。
すでに国単位で考えられてきた従来の経済理論や経済政策は、ほとんど意味がなくっています。
アジアのブロック経済圏も現実味を帯びてきたかもしれません。

資本主義下では、一般に正の利子率があって、「資本」や「貨幣」は増殖するものです。
また、どんな商品とも交換可能な普遍性のある存在です。
これは、「先祖霊」が個々の人間の霊魂を生み出すとともに、個々の霊魂が回帰する普遍的な存在であることと重なります。
実は、資本や貨幣は、先祖霊などの宗教における霊の、経済における等価物です。

ですから、国家資本主義下の資本や貨幣は、柳田的先祖霊の等価物です。
一方、グローバル資本主義下の資本や貨幣の等価物は、折口的先祖霊に近い物となるでしょう。
国家を否定して移動する部族文化のあり方は、資本や労働力が国を越えて移動するグローバリゼーションとつながると思います。

グローバリゼーションの流れには、柳田的な一国民俗学の先祖観よりも、折口の霊魂観の方が適しています。
折口的な「先祖」と言えないような「力」としての霊魂は、「先祖霊」の観念が失われても、意味を持つと思います。
ですから、供養のあり方に関しても、柳田的供養よりも、折口的供養を考える必要があると思います。
(2009)

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